過去の歴史が変わる?

中学の歴史の教科書には、『源 頼朝』と『足利尊氏』として、この絵が載っていた記憶がある。


伝源頼朝像 騎馬武者像

伝源頼朝像 日経新聞 2011.11.27

騎馬武者像 日経新聞 2011.12.4



まぁ、テストで「この絵が誰か書きなさい」なんていう設問があった記憶はないのでありますが、好きで勉強していたわけではないボクのようなものにとっては、
「いい加減なことを教科書に載せてもらっては困ります」
なんてことを思ってしまう(笑)

当然、それなりの研究成果を上げて、自他共に認める『学者』といわれる人たちが、かつて
「これは、源 頼朝です」
「これは、足利尊氏だ」
ということで、ボクたちの教科書に載っていたんだと思うのでありますが・・・。


「えぇ~っ!?いつからそうなったのサ」


なんて、それまで正しいと教えられていたことが、何の前触れもなく正しくなくなったということを時々見たり聞いたりするわけでして。

まぁ、歴史だけではなくて、自然科学はじめその他諸々の分野でも新しい発見というのがあって、ボクたちの知識も増えていくし、新しい発想というものも生まれてくるというのは理解しているつもりであります。


がぁ、


個人的に好きで学ぶならいざ知らず、それが学校という場で教えられているということを考えると、かくもいい加減な事実の勉強というものは、さして重要ではないような気がするのでありました。

歴史というのは、いまさら変えようがない確定した事実のはずなんだけど、その事実が曲げられてボクたちの知識として入ってくることがあるということであります。


日経新聞 2011.11.27 より

日経新聞 2011.11.27 より



いつだれがだれを書いたのか?

・・・。

「はっきりしてないんだ・・・」

・・・。

はっきりしてることといったら、1+1=2とか、「ア」は「あ」だとか、「□」は四角だとかetc.
どうしても知っていないといけないことなんてのは、個人的にはそうはたいしてないと思っているのでありまして・・・。

過去に残された文献などは、そこにはっきりとした文字や絵や文章などが残っているわけだけれど、それでも同じ言葉や文章を見ても人によっていろいろな解釈が出てくるわけで、それが『研究』などと大層なものになってくるわけであります。

文字や文章というのはそこに書かれているということだけが確かなことであって、あとはそれをどんな思いで書いたのか、ひょっとしたらウソが書かれていたとしても、あとから読む人にはわからない。

学者さんたちはそれを確かなモノにするために、数多くの文献を探しまくるのだけれど、結局は、
『限りなく正解に近いはずの、想像』
に過ぎないのであります。

それを「こうなんです!」と断定して、またそれを教えるというんだから、真に受けて教わった方はたまったもんじゃない(爆)


でも、そういうことをたくさん知っていないと偉くなれないなんて世の中も、

どうかしてるゼ!

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